今回は行田市忍諏訪神社へ歩いていきました
県道164号線を鴻巣方面へ行き、中山道合流後に埼玉古墳群へ寄り道してから諏訪神社といったところです。
夏も終わりかと思いきやまだ蝉がいました
だんだん夏と冬だけになってきてる気がしますね
これは農業用の用水路ですかね。
日本の町並み、特に住宅街はどこも似たような風景になりがちですが、こういった用水路、どぶ川、小さな川には様々な違いが見られるのが魅力だと思ってます。
埼玉古墳群の一つ二子山古墳です
二子山古墳(ふたごやまこふん)は、埼玉県行田市埼玉にある前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。埼玉県では最大規模の古墳で、6世紀前半の築造と推定される。
二つの山があるように見えることからこの名がある。
墳丘長138メートル
後円部径70メートル
高さ13メートル
前方部幅90メートル
高さ14.9メートル方形
現在の内堀は水をたたえているが、元々は空堀だったことがわかっている。西側くびれ部に造り出しがある。墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なる。 もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれる。 内部埋葬施設は不明であるが、周濠からは1メートルを越える円筒埴輪が、多数出土している。 古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられている。 浸食作用で墳丘外周の崩落が深刻化したため、内堀の水を抜いて埋め立てて「空堀」にする工事が進んでいる。
Wikipediaから引用
馬のハニワでしょうか
忍川と野合新橋
鴨がいるのが見えますでしょうか
私の姿を見るや逃げだしてしまいました。
遂に忍諏訪神社に到着しました。
当社の鎮座したのは、82代後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又「持田村誌」 には、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文12年(1672) 拝殿を新たに建立した。現在の社殿は昭和36年の造営である。
文政6年 (1823)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、史に城内へ多度杜と一目蓮杜を勧請した。これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小両、科斗杜(風の神)・八幡杜・久伊豆社・荒神社・春遺稲荷大明神・神明杜・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社へ配祀された。
境内掲示より引用
こちらの忍諏訪神社は建御名方命、八坂刀売命を祀った諏訪神社です。
由緒書きの残っている諏訪神社ばかりでは無いのでまだまだ埼玉県内には八坂刀売命を祀った諏訪神社があるかもしれないですね。
境内社にお狐様
こちらが東照宮
お詣りを済ませ、道路隔ててすぐそこにある忍城へ
のぼうの城でおなじみの忍城です。
かの上杉謙信公や石田三成公をも寄せ付けなかった関東七名城の一つです。
ちなみに当時の堀、沼地は水城公園として改装されとります。
帰ります。途中白鳥みたいなのがいました。
股擦れ起こして激痛なんで電車で帰ることにしました
やはりタイツやベビーパウダーみたいな対策しないとダメですね。
最後におまけ